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安心できる場所はありますか?

2011/05/14
私にはそういった場所はありませんでした。
小さな時は祖母の隣だった気がします。
しかし、成長とともにいつしかそんな場所も失い、
一人暮らしの時の自分の家さえ、発作を起こすような場所でした。
自由だけれど孤独で寒い場所…。

けれど、私は回復した。
何故でしょうか?

それは昨日からのPTSDというのがキーワードです。

普通、人は安心する場所というのがあるそうです。
雑誌をお手洗いに持ち込む人、いませんか?
その人にとってはお手洗い。
女性で台所に立つと落ち着くと言う人がいますが、その場合は台所。

でも、PTSDの人の場合、場所ではなく人に保護されている空間であることが多いのだそうです。
私の場合は主人でした。
主人は私の中の誰が出ても拒まなかったし、受け入れてくれました。
私の安心できる場所は主人のいる場所なのです。

PTSDの引き金になった事件は19の時。
発症は22の時。
何故3年も発症しなかったのでしょうか。

いえ、実は19の時にも既に発症していたのだと思います。
けれど、当時は別の保護してくれる人がいた。
だから、表向きはどうにかなっていたのです。
けれども、22の時その人との関係に暗雲が差し始めます。
そして、進路のことや様々な人間関係のこじれがありました。
その結果、私は発症したのだと前述のPTSDの人の特徴によって、今推測できるのです。

今も時折起こすPTSDの発作も、主人がいないと起こりやすくなります。
保護してくれる人がいないため、不安が増幅しやすくなるのでしょう。
回復のカギは保護してくれる人との信頼関係にあるようです。

カウンセラーの人が話してくれました。
昔私と同じく、恋人がいて安心を覚える女性がいました。
でも、当然のことながら恋人だって、恋人の生活があります。
仕事に行かなければならないし、離れないといけない時もあります。
そこで二人は普段必ず身につけている腕時計を交換し、
離れている時間を埋め合ったといいます。
そして、数年後二人の腕時計は結婚指輪になったとか。
何ともいいお話ですね。
(アメリカなら男性の下着を身につける女性もいたとか。アメリカならではですね。)

私は未だ主人がいない時の対処法を完全には身につけていません。
先ほどの例のように腕時計ともいかず、指輪ともいきません。
家には夫の普段愛用しているものはたくさんあるけれども、私は安心を覚えられないのですから。
最愛の夫との間に血を分けた子どもまでいるのですが、それも別。
困ったことです。
今、この問題の解決に向けて、どうにか解決策を練っているのですが、
なかなか思いつきません。
例のように物質的なものでは満足しないようです。
こればかりは主人と話し合いを重ねて検討していくしかないようですね。。。
やはり信頼関係の在り方にあると思います。


PTSDで苦しんでいる方の参考になればと思って今回記事にしてみました。
未だ私の中では未解決の問題ではありますが、参考になれば幸いです。
どうか、少しでも多くの方が少しでも苦しみから解放されますように。
また人と接する喜びに触れられますように……。





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22:26 病気 | コメント(0)

間違った認識

2011/05/13
カウンセリングを始めて、もう2カ月が経過しただろうか。

カウンセリングを通じてよく感じるのが、認識の違い。
私はこれまでごく一般的な思考をする人間だと思っていた。
しかし、実はかなり偏りがあり、間違った認識をしているらしい。

私は19の時の事件をきっかけにPTSDを発症、そしてうつ病になっていると思っていた。
(一応現在の診断書はうつ病ということになっている。)
しかし、ずっと昔からPTSDは発症しており、うつ病の引き金になったのが19の時の事件ということらしいのだ。
まあ、よく考えればそうだろう。
よほどの心の傷を負わない限りDIDにはならないのだから、
かなり昔からPTSDを発症していると考えるのが自然だ。

つまり、私は昔からPTSDを発症しており、
少しずつフラッシュバックを起こすような事柄(ストレス)を充填していき、
それが限界になったところでフラッシュバックを起こしていた。
しかし、それが当たり前になっていて、拳銃の弾を充填し、また打つ、また充填する、
のように繰り返す癖が付いているということらしいのだ。
しかし、決定的にうつ病にしたのは、19の時の事件だったということだろう。
故に診断としては、PTSDということになるということだった。

PTSDの主な症状は感情鈍麻、過覚醒、フラッシュバックの3つ。
感情鈍麻はやる気がなく、だるいという症状で、
過覚醒は一種の躁状態。
フラッシュバックは過去の場面の映像が意思とは無関係に想起され、時にはパニック状態になる。
(誤診として、躁鬱だと診断されることもあるらしい。)

最近、久しぶりにひどいフラッシュバックに襲われた。
すると、またフラッシュバックが起こるのかという不安が付きまとうようになる。
しかし、カウンセラーの先生が言うには、治りかけているから久しぶりに起こるということ。
また違ったカウンセラーによると
「まだ必要だからフラッシュバックを起こす」
ということらしい。
どうやら、時が経って、再びそのことに向き合う時期が来たということなのだろう。
フラッシュバックは嫌だけれども、良くなっている証拠だとも言えるのかもしれない。


話が変わるが、間違った認識ということに戻ろう。

実は私は自分がそんなにひどい状況で育ったとは思っていなかった。
何故なら、人並みの家に生まれ、人より少しばかりいい成績で学生時代を過ごし、
病気によりひどく苦しみはしたけれども、今は温かい家庭がある。

しかし、いつもカウンセラーの先生には言われるのだ。
「これまで大変でしたね。」と。
いつもきょとんとして「そうかなぁ?」などと思っていた。
カウンセラーの立場上そう言っているだけかとも思っていた。
しかし、夫も言う。
「そりゃあ、普通の環境ではなかったと思うよ。」
と。

それは、物質的なことだけを言えば、普通だったのだろう。
しかし、実に窮屈な思いを抱きながら大人になったのだろうと夫は言う。

母と祖父母は中が悪かった。
それで父と母も険悪になることがあった。
私は間で挟まれて、お前が悪いんだと言われ、そうなんだと思った。
母は次第に歪んで行った。
父は母に何も言わなかった。
家族は崩壊していたのだった。
そして私は病気になった。
しかし、病気を受け入れられる人はどこにもいなかった。
家族にも、友達にも、どこにも…。
だから、私は首を吊ることを選んだのだろう。
(当時はそう思ったのではなく、ただただ、何もわからず苦しかった。)

何気なく両親が発した言葉を今でもよく思い出すのは、きっとその言葉が酷かったから。
今でも私の心の傷を痛ませる。
しかし、昔は両親を憎み、嘆いたこともあったけれど
今はそれも仕方なかったのだと思うようになった。
一時は反動から「それでも私の両親は私にちゃんとしてくれた」と擁護的になっていたが、
今は「それでもやはり両親はひどかったのだ」ということに改められた。

カウンセリングによって、間違った認識を改めることが出来ていると思う。
間違った認識を改めることによって、必要以上に自分を責めなくなる。
自分を責めなくなることが、PTSDの回復への鍵だと思う。


ひどいことに遭った。
すると、嫌な気持ち、悲しい気持ちにもなるだろう。
相手を憎むこともあるだろう。
しかし、それはとても自然なことじゃないだろうか。
そんな自分を受け入れる、それってとても大事なことだよ。

どうか、諦めないで。
一緒に光の射す方へ。





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21:21 病気 | コメント(0)
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